2018年6月27日水曜日

文化が交わる「大阪の沖縄」

東京新聞の6月26日の「文化」というコーナーに大阪の大正区の「関西沖縄文庫」が紹介された。

少数派のぼやき

東京新聞の名物コラム「本音のコラム」。中でも斎藤美奈子氏のコラムは正鵠をついている。本日は「少数派のぼやき」。私と同じ考えをされており驚いた。


震度6弱 首都圏危険高く

政府の地震調査委員会が26日公表した全国地震動予測地図2018年度版で、首都圏や南海トラフ巨大地震が懸念される西日本の太平洋側など、多くの地点で強い地震に見舞われる危険が前年より高くなったことが分かった。中でも東京周辺の危険性が目立ち、30年以内に震度6弱以上の揺れに襲われる確率が千葉、横浜、水戸で80%を超えた。最新版は、防災科学技術研究所のウエブサイトで公開され、住所から発生確率を検索できる。


2018年6月23日土曜日

2018年06月18日の地震により上町断層帯の地震の可能性が高まったという専門家

6月18日大阪で震度6弱の直下型地震が発生。有馬-高槻断層帯が引き起こしたと見られている。今回のこの地震により、周辺の上町断層帯や生駒断層帯の断層帯の地震が確実に可能性が高まったという専門家の意見である。




2018年6月20日水曜日

総論賛成、各論反対

本日の、斎藤美奈子氏の本音のコラムなかなか正鵠を突いていて興味深い。
米朝会談が日本では、あまり歓迎されていない論調を述べているのだが、もっか米朝会談を評価しているのは、日本共産党だけらしい。私は鳩山さんの「最低でも県外」と言ったのは、勿論選挙対策はあるにはせよ、鳩山さんの性格をよく表している。お坊ちゃんと言ってしまったらそれまでだが。沖縄の基地問題を提起したことには間違いないであろう。


2018年6月18日月曜日

大阪、北摂地方で震度6弱の直下型地震

2018年6月18日(月)早朝7時58分、大阪の高槻や枚方など北摂地方で震度6弱の直下型地震が直撃した。断層型地震と思われる。

大きな揺れが、都市機能を一瞬で混乱に陥れた。大阪府北部を震源に、最大震度6弱を観測した18日朝の地震。各地で建物倒壊や火災が起き、死者やけが人も相次いでいる。消防には、エレベーターに閉じ込められた人からの救助要請が殺到。週明けの都心を襲った災害の全貌はいまだ明らかにならず、自治体や警察は情報収集に追われた。


「壁が崩れて、女の子が下敷きになった」

 大阪府高槻市栄町の市立寿栄小学校。大きな揺れが収まった直後、門の前にいた警備員の男性(70)のもとに児童が駆け寄り、こう告げた。

 同小のプール沿いに設置された高さ約2メートルのブロック塀が崩れ、通学中の女児(9)が巻き添えになっていた。男性は近くの住人らと協力して何とか塀を持ち上げようとしたが、最初はびくともしなかった。通りかかったトラックの運転手がジャッキを使って上げようとしたが、それでも上がらなかった。

 消防が来て、ようやく救助された女児の周囲には血だまりができ、呼びかけにも応じることができなかったという。





「南海トラフの前兆か、大地震が現実的に」と専門家 

8日の通勤時間帯に震度6弱の揺れが大阪を襲った。専門家は、南海トラフ地震が起きる前に西日本で内陸型地震が頻発することを挙げ、大地震がいよいよ現実的になったと話す。


 気象庁によると地震の規模はマグニチュード6.1。高槻市など大阪府北部で震度6弱を観測し、近畿地方の広い範囲で震度5を記録した。大阪府内で震度6弱の揺れを観測したのは1923年以降、初めて。この地震で外壁の下敷きになった9歳の女の子と80歳の男性ら3人が死亡。住宅火災も発生した。

 今回の揺れをもたらしたのは「有馬―高槻断層帯」の東端近く。地震学者の都司嘉宣氏は、1995年の阪神・淡路大震災で動いた「六甲・淡路島断層帯」の北側の延長上に当たり、その影響かも知れないと話す。

「六甲・淡路島断層帯は、有馬―高槻断層帯と重なるように高槻を経由して京都付近まで伸びています。95年の地震では揺れが六甲付近で止まっていたので、そのとき残されたエネルギーが今回放出されたのかも知れません」

 同じく地震学者の島村英紀氏は「大阪府の枚方市から羽曳野市まで南北に延びる生駒断層帯とも近く、そちらの可能性もある」という。

 今回の大阪の地震に加えて、ここのところ千葉、群馬で地震が発生し、桜島では爆発的噴火も発生している。これらは一見無関係に思えるが、東日本大震災でプレートが大きく動いたことで日本列島全体の地震活動が活発になったことが遠因にあるという。
 気になるのは、今後30年以内に最大でマグニチュード9クラスが見込まれる南海トラフ地震との関連だ。

「南海トラフ地震のサイクルは100年に一度。すでに前回から72年が経ち、プレート間のひずみがかなり溜まっています。南海地震が起きる前には、近畿地方で地震が多くなることが知られていて、今回もその一つと捉えることができます」(都司氏)

「詳しいメカニズムはわかっていませんが、前回の南海トラフ地震(1946年)が起きる前にも北但馬地震(1925年)、北丹後地震(1927年)、鳥取地震(1943年)といった内陸直下型地震が続けて起きています。同様に5年前には兵庫県淡路島でM6.3、3年前には徳島でM5.1の地震が発生していることを考えても、今回の大阪での揺れは南海地震の前触れだと考えられます。今後も西日本での大きな直下型地震に気を付ける必要があります」(ジャーナリスト・桐島瞬)


トランプ氏、安倍首相に「日本に2500万人のメキシコ移民送れば君は退陣」

ドナルド・トランプ(Donald Trump)米大統領が先週の先進7か国(G7)首脳会議(サミット)で安倍晋三(Shinzo Abe)首相に対し、自分が日本に2500万人のメキシコ人を送り込んだら退陣は近いと発言していたことが分かった。米メディアが15日に報じた。トランプ大統領は他国の首脳陣に不快感を与える発言を連発し、G7は険悪な雰囲気の中で閉幕した。

G7は、トランプ大統領が首脳宣言の採択を唐突に拒否し、開催国カナダのジャスティン・トルドー(Justin Trudeau)首相を痛烈に批判したことを受け、混乱のうちに終了した。

 米紙ウォールストリート・ジャーナル(Wall Street Journal)は同席していた欧州の関係者の発言を引用し、舞台裏を報じている。報道内容によれば、トランプ大統領は、貿易問題やテロ、移民問題が話題に上ると、他国の首脳に皮肉や非難を浴びせた。

 欧州連合(EU)の職員によれば、トランプ大統領は欧州にとって深刻な問題となっている移民問題に言及した際、安倍首相に対し「晋三、君はこの問題を抱えていないが、私なら日本に2500万人のメキシコ人を送り出すことができる。そうすれば君はあっという間に退陣することになる」と語った。

 さらに、イランやテロが議論になると、フランスのエマニュエル・マクロン(Emmanuel Macron)大統領に矛先を向け、「君ならこの問題についてよく知っているに違いない。すべてのテロリストはパリにいるからな」と発言したという。(c)AFP


2018年6月8日金曜日

南海トラフ地震 被害額 1410兆円

土木学会が衝撃的な発表を5月7日した。M7-8クラス級の巨大地震が、今後、30年以内の発生確率が70-80%と発表させている南海トラフ地震が起こった場合、20年間の影響推計の被害が1,410兆円という。これは、まさに国難であり、一旦大災害が起きれば日本は、最貧国になる恐れがあるという。前回の南海地震は、1944年と1946年で、まさに日本が敗戦した前年と翌年に起こっている。これは、もともと米国の本土空襲で日本が壊滅的な被害を受けたとしであり、この南海地震の被害が当時の報道規制などもあり、はっきりしないが、いずれにせよ戦争と地震で壊滅的な被害を受けていた訳だ。しかし、戦災によって疲弊していたので、地震の被害は小さく見える。今日、南海トラフ巨大地震が発生した場合は、日本が豊かになっているだけに、その被害は、巨大に見えてしまう。





2018年6月4日月曜日

もうひとつの沖縄戦 5 12人の死伝えたい

この東京新聞の企画も本日の夕刊で最終回になった。捕虜の体験者も時代と共に高齢となり、自ずと少なくなっていく。少なくなった捕虜の体験者たち。古堅さんは言う。「私たちはあの時代確かにハワイの収容所にいた。それは米国の沖縄戦量政策にもかかわっていたはず」「だから体験を語っておかなければならない。3千人余りの一人の捕虜として」


2018年6月2日土曜日

もうひとつの沖縄戦 4 なぜ沖縄県民だけが

沖縄戦の捕虜移送は、未解明な部分が多い。米軍は、戦後沖縄の統治を円滑に進めるため沖縄県人の男をハワイに移住させることにした可能性があるという。46年の秋以降、ハワイに抑留された捕虜たちが帰りついた沖縄は、「アメリカ世」に変貌していた。


2018年6月1日金曜日

もうひとつの沖縄戦 3  敗戦 帰れない日々

昨日は、紙面の都合でお休みになったこの企画。本日は8面にて掲載された。18歳未満の捕虜には、軽作業が割れ当てられた。古堅実吉(88)さんもその一人だった。戦争の終結を監視役の米兵が歓喜しているので知ったという。いつ殺されるか、怯えた日々を過ごした古堅さんには、悔しさはなく、安堵したという。ここらあたりの心境は、年代によっても違う。おしなべて、年配者は打ちひしがれ、若者は、「ああ、これで戦争が終わりほっとした」と感じる人が多かったように思う。日本の敗戦は、古堅さんたちに「帰国」の夢をもたらした。しかし、なかなか帰れなかった。ようやく帰れたのは、それから1年以上経過した、46年の秋を過ぎてからのことだった。